善福寺公園めぐり

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江戸時代の旅人はどう歩き、走ったか?

谷釜尋徳「歩く江戸の旅人たち スポーツ史から見た『お伊勢参り』」(晃洋書房)を読む。

 

江戸時代、庶民が娯楽目的で長距離旅行をすることが流行るようになった。

当時の旅行はほぼすべてが徒歩によるものだ。しかも、好き勝手に旅行することは許されないから、信仰を利用した旅であり、特に盛んだったのが伊勢神宮参拝を目的とするお伊勢参りだったという。

長距離の徒歩旅行とはどんなものだったのか、東洋大学法学部教授でスポーツ史を専門とする著者は、実にさまざまな史料をもとに当時の徒歩旅行を分析している。

たとえば、史料が比較的多く残っている東北地方の人々の旅を調べると、総歩行距離は2千㎞を軽く上回り、1日に歩く距離は平均して約34㎞ぐらい、平均して1日10時間程度歩いていたという。

 

本書を読んでいておもしろかったのが、当時の日本人の「歩き方」。

かつて日本人は「ナンバ」の姿勢で歩いていて、これを論じた演劇評論家で武智歌舞伎でも知られる武智鉄二によると、当時の日本人は手を振らないンバの歩行をしていて、それは農耕生産における半身の姿勢によるものだという。

「農民は手を振らない。手を振ること自体無駄なエネルギーのロスであるし、また(歩くとき)手を振って反動を利用する必要が、農耕生産にはない」と武智はいっている。

 

ちなみにナンバの語源には諸説あり、重たい荷物を背負って急な坂を登るような「難場(なんば)」では自然と膝の上に同じ側の手をあて膝と肘をのばして歩く姿勢になることから「難場」の字から由来するとの説や、西洋から伝来した滑車が「南蛮(なんばん)」とよばれ、これを使って綱を引く姿から生まれたという説などがある。

 

ほかにも筆者は日本に滞在した外国人の日記などからも分析していて、当時の日本人の歩き方は、前傾姿勢で爪先歩き、引き摺り足に内股・小股歩きだったという。これは着物を着ていた上に履物が草履や下駄だったからの理由だろう。

また、日本人は音を立てて歩くことに西洋人は驚いていて、これも下駄や草履など日本人の履物に由来している。

この点では小泉八雲の次のような記述がおもしろい。

「日本の下駄は、それをはいて歩くと、いずれもみな、左右わずかに違った音がする──片方がクリンといえば、もう一方がクランと鳴る。だからその足音は、微妙に異なる二拍子のこだまとなって響く」

 

 

では、旅のときはどうしたかというと、草鞋(わらじ)でかかとを固定して歩いた。いわば草鞋はウォーキング・シューズというわけだ。これなら音も立てずに颯爽と歩けただろう。

 

本書を読んでいてさらに興味深かったのが飛脚の走り。

旅人たちが歩く街道で目にするものといえば、スピーディーに荷物を運ぶ飛脚の姿で、彼らはどんな身体技法で荷物を運んだのか?

この点でも武智は、「(飛脚も)脚を後ろに高くあげ、手を横に振り、ナンバの姿勢のままで走る」と書いている。

さらに本書の筆者は、当時の広重の東海道の絵なんかも参考にしつつ、飛脚の走り方は現代とは異なる特徴を持っていたと考えて差し支えないとして、その特徴のひとつとして「片踏み」という走り方をあげている。

「片踏み」とは「半身姿勢を保ったまま、片方の脚で身体を押し進め、反対の脚でバランスをとるような感じの動き」だそうで、こうした「半身の走法」には、疲労軽減の効果もあったという。

 

「片踏み」というのはどんな走り方なのか、ちょっとわかりにくいが、実は馬の走り方は人間の「片踏み」とよく似ているという。

競馬用語に「手前」というのがある。馬は4本脚で、走るときに前の2本の脚のどちらかを常に前に出して走るが、これを「手前」といって、右前肢を左前肢より常に前に出して走れば右手前、逆なら左手前という。

これは人間の片踏みの走り方と同じで、常に片側の肢(手前肢)が反対側の肢(反手前肢)よりも少し前に出し、進行方向に内方のお腹を見せるような形で、つまり半身の姿勢で走るのだとか。

たしかに競馬中継なんかを見ていると、かなり半身になって走っている馬がいる。

 

現代人にとっては想像しづらいことではあるが、江戸時代の長距離ランナーである飛脚も、より“楽な走り方”というので半身の姿勢で走っていたのだろうか?