「三国志」は、400年続いた漢王朝の滅亡によって秦の始皇帝以来の古代帝国の時代が終わり、魏・蜀・呉の三国が群雄割拠した時代(220年ごろ – 280年ごろ)の興亡史をまとめた歴史書のこと。西晋時代に陳寿(233-297)という歴史家が編纂したものだが、後世になってこれに民間伝承などが加わり、明の初期に「三国志演義」が成立。魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権ら三英傑の死後、晋が呉を滅ぼして天下を統一するまでのドラマチックな話が小説として描かれ、日本にも伝わってきて多くの人はこの「三国志演義」の物語を「三国志」として理解している。
「三国志演義」をベースに書かれたのが吉川英治の「三国志」であり、日本でもブームになった。この小説を読んだ影響からか、いまだに私などは曹操は悪役で、劉備こそ正義の人と思っていて、劉備のファンも多い。
それはともかく、今回の「三国志展」は、三国志の時代に出土した文物によりリアルな三国志を読み解くことを重視しているのだそうで、最大の見どころは2008年から09年にかけて見つかった曹操を葬った墓の出土品が海外初出品されていることであり、また、2005年に見つかった呉の皇族クラスの墓から出土した「虎形棺座」なども展示されている。
意外だったのは、三国志の時代は人が生きていくには過酷な時代だったということだ。
記録によれば、263年ごろの三国の人口は767万人。戦争の絶えない時代であったにしても、当時の人口はかなり少なかったという。
2世紀ころの漢の人口は6000万人もあったという。それが、3世紀の三国時代になると激減して1000万人以下になり、その後、徐々に回復して8世紀の唐の時代になると5000万人を超えるまでになるが、唐の時代にまた急激に減っているのは「安史の乱」などの戦乱が原因という。
三国時代の人口減は、戦乱もあっただろうが、もうひとつ要因と考えられているのは寒冷化だという。
当時は今より年間平均気温が1℃以上低い寒冷期だったとみられるという。年間平均気温が1℃下がると植物の生息期間は1カ月ほど短くなり、生息可能高度は170m低くなるともいわれている。
寒冷化、不作、人口減、戦争という悪循環に見舞われていたのが三国志の時代だったようだ。
展覧会では、数々の珍しい展示品がどれも興味深かったが、戦乱と寒冷の時代にあって、心なごむ展示品のいくつかが印象的だった。
そのひとつが俑(よう)。俑というのは始皇帝の「兵馬俑」でも知られるが、貴人の墓におさめられた副葬品の人形のこと。
蜀の「舞踏俑」(重慶市出土、後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀、重慶中国三峡博物館所蔵)は冠をかぶった女性がやや腰を落とし、袖をつかんだ右手をあげ、左手では上着の長い裾を少し引っ張りあげている。
おそらくこれは後漢から三国時代にかけての蜀で流行した踊りの象徴的なポーズなのだろう、と案内板にある。
何と楽しそうなことか。
同じく重慶出土の「奏琴俑」。
横座りの姿勢で袖をまくり演奏に興じている。
何と明るくうれしそうな表情。
こちらは笑っている。
やはり重慶出土の「説唱俑」。
半裸の男が片膝をつき、快活に話芸を披露している。このような異形の芸人を「説唱」とか「俳優」と呼んだという。
楽しんでる。
「調理俑」。
「金のなる木」とされる「揺銭樹」は、富裕層が死後も財に恵まれるようにと墓に置いたものだが、その台座だけが残っているのが「揺銭樹台座(ようせんじゅだいざ)」(後漢~三国時代(蜀)・3世紀、重慶市豊都県林口墓地2号墓出土 重慶市文化遺産研究院蔵)。2012年に発掘されたもの。
辟邪(へきじゃ)という架空の動物をかたどっていて、墓への侵入者を威嚇するとともに、墓主を天井の世界へと導く役目もあったというが、辟邪が大口開けて笑っている。
「三国志展」のあとは、同じチケットで本館で開催中の特別展も見ることができるというので、本館に回る。
本館で開催中の「奈良大和四寺のみほとけ展」が「三国志展」に負けず劣らずよかった。
中でもすばらしかったのが、奈良・室生寺所蔵の「釈迦如来坐像」(平安時代・9世紀)、「十一面観音菩薩立像」(平安時代・9~10世紀)、「地蔵菩薩立像」(平安時代・10世紀)。
息をのむほどの美しさで、しばらくその場を離れられなくなった。
岡寺の「義淵僧正坐像」もリアルだった。
そしてもうひとつ、岡寺の「天人文甎(てんにんもんせん)」。
「甎」とは焼いて仕上げたレンガのこと。室内を飾るため寺院の壁などにはめて使用されたという。
この「天人文甎」のひざまずく人物は、その独特な装束や手にする衣が浮遊していることから、天人と思われるという。
三国時代の新羅に類品があり、大陸の影響を受けてつくられたという。
写真撮影禁止だったので、パンフレットより。
衣が浮いているだけではない。
天人も浮遊している!