善福寺公園めぐり

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天人 深代惇郎と新聞の時代

後藤正治『天人 深代惇郎と新聞の時代』(講談社)を読む。

朝日新聞の「天声人語」の執筆者であった希代の名コラムニスト、深代惇郎を描いたノンフィクション。
「天人」とは「天声人語」の略という。なんだかエラそうに聞こえるが、「天声人語」とは「天に声あり、人をして語らしむ」の意味で、その本意は「人を導く天の声を聞け」とかではなく「民の言葉を天の声として聞け」といいたいのだという。

たしかに深代惇郎の天人は民の声を代弁していた。彼の天人を読んで以来、どうしてもそれが基準になってしまって、今も朝日を講読しているが天人だけは読む気がしない。

深代惇郎とはいったいどんな人なんだろう? 何が彼をあそこまでの名コラムニストにしたのか、という興味は昔からあった。
それにこたえるのが本書だが、彼を知る人の思い出話を集めた感じで、深代惇郎の「横顔」集みたいになってしまったのは残念。だが、丹念によく取材している。

発見もあった。
深代惇郎は東京・浅草橋、つまりは江戸っ子の風情を残した東京は下町出身だった。
1929年(昭和4)の生まれで、終戦の直前の1945年4月、海軍兵学校予科に進んでいる。戦争経験者でもあったのだ。
結婚し子どもも2人いたが、妻子とは別れ、前妻との離婚が成立した翌月に再婚している。亡くなる1年前のことだ。

そんな彼が、ぴりりと風刺の効いた「天声人語」を執筆した期間は3年弱でしかなかった。
46歳のときの1975年11月はじめ、急性骨髄性白血病のため入院。それからわずか1カ月あまりのちに亡くなっている。

いろんな人が思い出を語っているが、同じ社会部の記者だった秋山康男さんという人の言葉が印象に残った。次のように言っている。

「世の中に名文家と呼ばれる人は幾人もいたし、優れたジャーナリストも大勢いる。深代もその一人でしょうが、彼には何かひと味違うものがあった。単に文章がうまいとか気が利いているというんじゃなしに、その背後に人生論的なフィロソフィーがあったと思いますね。人間のもつ深い情感というか、存在の哀しみというのか、天人にもその種のものがどこか込められていた。極めて理性的な人でありつつ、“不良少年”のロマンを保持したままに大人になったようなところがあった。そんな男が、毎日、八百字の原稿を心血注いで書いていた。深代が白血病で死んだと聞いて、そうか、奴は原稿という血を流して死んで行ったのだと思いましたね。ごたから人の心を打ったのでしょうよ」

深代惇郎の「天声人語」は何冊かの本になって残っているが、いつも最後の1行にうならせられる。血の通った民の声があの1行に込められていた。

最後の1行にうならせられたのは、深代惇郎と、あと1人、池波正太郎だったか・・・。