善福寺公園めぐり

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岸田國士を読む。

きのうは南青山の「マンダラ」というライブハウスで岸田國士の戯曲リーディングを聴く、というか観る。
題して「岸田國士を読む。」

この日の作品は戯曲「世帯休業」と小説「記憶のいたづら」。
出演は小林七緒、ヲサダコージ、樋口泰子、斎藤祐一、常田景子、椎原克知、佐藤里真、誠。
所属は流山児★事務所、無名塾文学座、無所属などいろいろ。

「マンダラ」は地下鉄・外苑前から徒歩5分の便利なところにあり、地下1階。ステージがあり、客席はラウンジ風。演劇よりも音楽の会場に向いている感じ。縦長になっているので、後ろの方は見えずらかろうが、早めに行ったので前の方に座れた。
この日の公演はけっこう人気のようで、客席は満席。女性が多かった。
料金はワンドリンク付きで3600円。バーボンのロックを注文。

ここ何年か戯曲リーディングの話をよく聞く。が、実は戯曲リーディングという手法には疑念を持っていて、そもそも舞台で上演するのが目的で書かれた戯曲を何で「読む」んだろう、と思っていた。
もちろん、役者が戯曲をよりよく理解するために読むことは必要だろう。読むことによってその戯曲に新しい光が当たるかもしれない。しかし、金を取ってまで「読む」意味があるのだろうか?と。

しかも、役者が舞台の上で、観客を前に台本を読めば、結局は演技になってしまうと思う。
すべての演技性を捨て、自らを客観化して「読む」に徹すれば、それこそリーディングだと思うが、そんなことできるのか?と思う。

まず最初はその戯曲のリーディングでタイトルは「世帯休暇」。
1930年ごろに発表された作品で、昭和初期の雰囲気がよく出ている作品。
結婚7年目の夫婦が深刻な倦怠期を迎え、「お互いに息抜きをしよう」と1週間だけ夫婦生活にお休みを与え、互いに勝手にすごすことにしようと決める。
その2人と下宿人の詩人とのやりとりなのだが、リーディングといいながら、役者はちゃんと演技している。結局は芝居になっている。しかも台本を持っての。
それだと戯曲の世界は狭まるのみで、なんだか台本読みに付き合わされているだけ、という感じなのだが。

2作目は小説のリーディング。題して「記憶のいたづら」
こちらはおもしろかった。

1950年ごろの作品。ということは岸田國士が亡くなるちょっと前。
短編小説で、妻が急に産気づいたのでお産婆さんを探しに行く夫。駅前の看板に「産婆大野登志」とあるのを覚えていた夫は、その産婆さんに来てもらい、無事に妻は女児を出産する。しかし、夫にとって「大野登志」という名前は子どものころ「ステキなお姉さん」と憧れた女性の名前で、しかもその産婆さんこそ本人だった。
次第に昔の記憶を呼び戻していく夫と産婆さんのやりとりに、ちょっぴり嫉妬する妻・・・。

役者5人が演じ分けてのリーディングが、小説の世界を広げ、ふくらませてくれ、なかなかの味わいがあった。ときどき笑わせてもくれた。
こんなリーディングなら楽しい。

戯曲のリーディングと小説のリーディング、その違いは何なのだろうか?