善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

池上永一 黙示録

池上永一『黙示録』(角川書店)を読む。

テンペスト』以来の池上永一の久々の長編。何しろ上下2段組で630ページ余もある。

テンペスト』同様、いやそれ以上にハチャメチャで、メチャクチャで、よくいえば波瀾万丈の物語。ときどき「そんなばかな!」とあきれ返って投げ出したくもなるが、好きな沖縄の話だからと心で許して読み進んでいく。
するとだんだん物語のとりこになり、最後の場面では涙がとまらない。そんな小説だった。

人間の醜さ、美しさ、清らかさを描くとともに、演劇論、舞踊論を読む趣もあった。

テンペスト』は19世紀末の琉球王朝が舞台で、幕末のころの動乱を描いていたが、今回の舞台は18世紀初頭の琉球を中心に、江戸や中国にまで話が及ぶ。
江戸は元禄から宝永、正徳、享保と続く時代。赤穂浪士の討ち入り、新井白石の登用、大岡越前守が江戸町奉行になったころ、といったら話は早いか。

柱となるのは玉城朝薫(1684~1734)による「組踊」の誕生物語。
組踊とは、せりふ、音楽、所作、舞踊によって構成される歌舞劇で、もともと中国皇帝よりの使者である冊封使を歓待するため、踊奉行だった玉城朝薫が創り出したもの。1719年の冊封儀礼のときに初演されて現在まで受け継がれ、能、歌舞伎、文楽などと同じく国の重要無形文化財に指定されているし、ユネスコ文化遺産ともなっている。

玉城朝薫は「江戸上り」で何回か江戸に出かけていて、そこでみた能や狂言、歌舞伎など大和芸能をヒントに、琉球古来の芸能や故事を融合させて組踊を創り出した。最初に作った「執心鐘入」は能の「道成寺」をモチーフにしたものだし、「女物狂」はやはり能の「隅田川」、「銘苅子」はやはり能の「羽衣」を参考にしていると思われるが、沖縄に伝わる「羽衣伝説」を元に作られたともいわれている。

そこに、赤貧の少年時代を過ごした蘇了泉(そ・りょうせん)という踊りの天才、王を支える「月しろ」の座をめぐって了泉と競う好敵手・雲胡(くもこ)などが絡み、史実と虚構が入り乱れる物語が展開していく。

政治を行う武器は、武力でも資力でもなく芸の力である、というのが、中国と大和(日本)にはさまれた小国・沖縄の生き方であったというところが興味深い。

そういえば以前、琉球時代の武士の床の間には、刀ではなく三線(さんしん)が置かれていたという話を聞いたことがある。
たしかに中国でも昔は詩人が政治家であり、日本でも平安時代などは政治家はさかんに歌を詠んでいた。
宰相という言葉がある。日本でも首相のことをこう呼んだりもするが、中国における皇帝を補佐する中央政府の最高責任者のことを指す。
しかし、本来「宰」とは「料理人」の意味であり、皇帝の料理人のことを宰相といった。
皇帝の健康・長寿こそがその国の行く末にとって大事であり、皇帝に食事を供する料理人はその国を動かす最重要政治家だったのだ。

話がさらに横道にそれていくが、いつも池上永一の小説を読んでいて「首里天加那志(しゅりてん・がなし)という言葉に心ひかれる。
首里天加那志とは琉球の国王のことで、部下たちはみんなそう呼ぶ。首里天とは首里で一番偉い人という意味なのか、国王のことであり、加那志(かなし)とは敬称で、「様」とか「陛下」とかいう意味だという。

沖縄では古語ともいえる大和言葉が今に受け継がれているという。
「かなし」という言葉も、現代語では「悲しい」の意味だが、大和言葉では「かわいい、愛おしい」となり、沖縄では「恋人、愛する人」の意味でも「かなし」が使われているという。

たとえば古謝美佐子の『童神』という歌に次の歌詞がある。

天からの恵み 受けてこの地球(ほし)に
生まれたるわが子 祈り込め育て
イラヨーヘイ イラヨーホイ
イラヨー かなし思産子(うみなしぐわ)

「かなし思産子」とは「私が産んだ愛(いと)しい子」という意味だ。

わが子と同じように、自分の国の王さまのことを「かなし=愛しい人」と呼ぶなんて、ホント沖縄の人は心優しいと思う。