善福寺公園めぐり

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ミツバチの糞と特定秘密法

先日読んだトーマス・シーリー著の『ミツバチの会議』に興味深い記述があった。
カンボジアラオスで戦火が続いていた1981年、レーガン政権のヘイグ国務長官は同地域に“黄色い雨”が降り注ぎ、それは当時のソ連とその同盟軍による化学兵器の使用によるものだとして非難した。
ところが、昆虫学者らが詳しく調べたところ、化学兵器とされた“黄色い雨”は、実はミツバチの糞であることが判明。やがて、ヘイグはこの問題について口を閉ざすようになった、という。

へーっ、そんなことがあったのかと調べてみると、たしかにあった。

当時の状況は、アメリカはベトナム戦争で敗北し、ベトナムから追い出されたが、インドシナでの戦火は消えることなく、今度はポル・ポト政権下のカンボジアに対してベトナム軍が侵攻を開始する。
そのさなかの1981年、アメリカのヘイグ国務長官は「ベトナムカンボジアラオスソ連から提供された化学兵器を使用した」と非難したのだった。

その根拠となったのが“黄色い雨”で、難民から寄せられたという「上空から散布された黄色い雨によってめまい、吐き気、変視症、吐血などを起こし、死者が出た」という情報。アメリカはさっそく問題の物質のサンプル(直径数ミリ程度の黄色い斑点のある葉や茎、小石など)を集め、分析した結果、ソ連が提供した化学兵器と結論づけた。

ノーム・チョムスキーエドワード・S・ハーマン著の『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学』は次のように述べている。

1980年代を通じて、レーガン政権は、カンボジアラオスで「黄色い雨」(イエロー・レイン)の被害者とされる人々について、大々的なプロパガンダ・キャンペーンを繰り広げ、ソ連ベトナムの代理政権を通じて、この地で化学兵器を使ったという主張を広めようとした。

(結局は「ミツバチの糞」とわかるが)それにもかかわらずこのキャンペーンは、アメリカが遂行した本物の大規模な化学戦争よりも、ずっと広い範囲に伝達された。『ウォールストリート・ジャーナル』は「黄色い雨」を大々的に取り上げ、共産主義のたちの悪さを示すこの事件にもっとも激しく憤りを表明していたが、この地域でアメリカが化学兵器を用いたことについては、「黄色い雨」キャンペーンの期間を通して一度も言及しなかった。

(こうした)メディアの支援のもと、虚偽の証拠にもとづいて、ソ連は事実上、この悪質な武器の使用に関連づけられてしまった。インドシナでのアメリカによる現実の大規模な化学兵器の使用を、今日に至るまできわめて控えめに報道することによって、メディアは、アメリカがこの問題に道徳的な立場をとり、そうした残虐な兵器の使用には反対している、という印象をつくり出すのに一役買った。

以上、『マニュファクチャリング・コンセント』では「ミツバチの糞」を巧みに利用したニセの情報に操られるメディアについて述べている。

また、同書には出てないが、この「黄色い雨」キャンペーンのおかげで、レーガン政権は「敵に対抗するため」として、化学兵器の生産再開と化学兵器研究支援額の4倍増額を議会に認めさせることにも成功したという。

このケースでは、「化学兵器」の正体は「ミツバチの糞」であることが判明した。しかし、重要なことは、真実が明らかになる以前に、十分に“ウソの事実”が利用され尽くしていたということだ。

それでも、真相が公になっただけでもまだ救われるかもしれない。
もし、ミツバチの糞であることが闇に葬られたままだったら、いったいどうなっていただろうかと思うと戦慄が走る。

さきごろ日本では「特定秘密保護法」が成立した。
この法律のもとで同じことが起こったら、きっと「ミツバチの糞」は特定秘密の対象となってしまい、国民の目は塞がれてしまうだろう。
そう思うとゾッとする。

ちなみに同書に出てくる「インドシナでのアメリカによる現実の大規模な化学兵器の使用」とは、ベトナム戦争での枯葉剤作戦など一連の化学兵器使用を指す。
ベトナム戦争枯葉剤作戦を承認し命令を出し、「ベトナムの稲作を壊滅させるために化学物質を使用することを承認した」のは、ほかならぬジョン・F・ケネディ大統領である。

アメリカはすでに太平洋戦争中の1944年に、フロリダで枯葉剤の散布実験を行っていて、日本に使用する計画があったという。
しかし、同書によれば、ウィリアム・リーイ提督は1944年、日本の稲作を破壞しようという提案への回答として、そのような行為は、これまでに聞いたことのあるキリスト教倫理のすべてに背き、戦争法規のすべてに違反すると述べ、反対したという。

太平洋戦争でやらなかったことを、ケネディ大統領はあえて行ったことになる。

もっとも、太平洋戦争末期、アメリカ軍は一般市民を殺戮する焼夷弾爆撃は平気でやった。そして、原爆を投下した。
一説によれば、45年8月10日には「対日枯葉剤作戦計画書」が完成していて、もしこの計画書がもっと早く完成していれば、原爆のかわりに、あるいは原爆とともに枯葉剤が日本に散布された可能性があった、といわれている。

いずれにしろ許されない話だ。