善福寺公園めぐり

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首里城への道──鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像

与那原恵首里城への道──鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房)を読む。

太平洋戦争末期の沖縄戦のさなか、沖縄の歴史的文化財は“鉄の暴風”といわれた戦火の果てに、すべてが焼失してしまったという。琉球王朝文化の中心である首里城とその周辺の遺産、紅型なども跡形もなくなった。

それを蘇らせたのが、鎌倉芳太郎という人物が大正末期に撮影した写真や取材メモ、研究資料などだった。
鎌倉が集めた数千点にのぼる研究資料、記録写真3千点あまり、スケッチ混じりの記録ノート81冊、このすべてが東京大空襲などの被災をも奇跡的に免れ、それはのちに沖縄の宝となり、沖縄文化の再生に貢献した。

鎌倉は本土出身の美術教師。大正10年(1921)、東京美術学校図画師範科を卒業し、4月から沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立第一高等女学校教諭となる。
このとき彼が沖縄への赴任を希望したのは、別に沖縄に憧れたからではなく、遠隔地のため諸手当が加算されて手取り100円の月給が魅力的だったからだという。100円というのは当時の平均初任給の約2倍だったという。

ところが、実際行ってみると、沖縄の自然と文化、そして人々の暮らしは彼の感性に強烈な印象を与えた。彼は沖縄の虜となり、首里城や紅型など琉球文化の研究に没頭するようになる。

鎌倉はこんな言葉を残している。
琉球の自然は美しい。亜熱帯の輝く光と色に満ちている。高気圧圏に入ったときの空は、抜けるように青く黒みを帯びて深い。入れ墨(女性の手の甲の入れ墨のこと)をしている人がとても美しかった」

戦後、鎌倉は自身も紅型の職人となって紅型復興の一員に加わり、1973年には型絵染技術が認められて人間国宝に認定されている。

理屈ではなく、感性が、歴史を動かす原動力になることがある。