善福寺公園めぐり

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佐藤志乃 「朦朧」の時代

佐藤志乃『「朦朧」の時代──大観、春草らと近代日本画の成立』(人文書院)を読む。

朦朧体とは、明治の後半、横山大観菱田春草らがはじめた新しい絵画の試みであり、これにより日本画の流れは大きく変わり、本書によれば、朦朧体の登場は近代日本美術史上もっとも重要な地位に置かれるという。

日本画の改革をめざした岡倉天心から「空気を描く方法を考えろ」といわれた大観、春草らは、西洋画の画法を取り入れた新たな画法の研究を重ね、輪郭を線ではっきりと描かない没線描法の絵画へと進化させた。これが朦朧体といわれる画法だ。

しかし、もともとは自分たちがそう呼んだのではなく、“濁っている”“汚い”“不明瞭”という批評家たちからの蔑称として、“朦朧としているようだ”というので「朦朧体」という語が用いられたという。
俳句・短歌の改革者といわれた正岡子規までも「これでは余りなさけない」と朦朧体を批判していた。
そんな口汚いあざけりの渦の中で、近代日本画の革新はいかにして成されたかを説くのが本書。
なかなかの力作で、時間を忘れて読みふけった。

著者の志乃さんは1968年生まれというから40代半ばぐらいの気鋭の学者。現在、上野池之端にある横山大観記念館の学芸員をしていて、専門は近代日本美術史、朦朧体はじめ明治・大正期の日本美術、近代の日印美術交流に関する論文などを執筆しているらしい。

当時、批評家たちは、けなすつもりで「朦朧体」という言葉を使ったが、最終的にはそれは“ほめ言葉”となった。だから今では、朦朧体は大観や春草らがめざした画法を表す言葉として定着している。
そこに言葉の不思議を感じる。

あとがきの中で、筆者が次のように述べているのが印象深い。

つまり朦朧体は、東洋とも西洋とも判じがたい、その両方が渾然一体となったものであった。また、朦朧体がもつ“あいまいさ”は、鑑賞者に自由に想像させ解釈をゆだねようとする、個人主義的な表現であったようにも思われる。
このように、近代化の過程における若い世代の挑戦は、既成の評価基準でははかることのできない芸術をうみだしたのである。

それにしても春草が37歳の誕生日直前に亡くなったのが残念でならない。
本書では、こんなエピソードが添えられている。(以下、大意)

天心らの新しい美術運動は「朦朧体」の悪評を受け、特に天心の近くにいた大観や春草は、絵が売れずに困窮を究めたという。

明治39年に天心、大観、春草らは茨城県の五浦に拠点を移すが、そこに当時人気画家であった尾竹竹坡が数名の芸妓を引き連れて訪ねてきた。春草はまだ30歳になったばかりのころ。

竹坡は春草の画室で2人してしばらく話していたが、やがて春草は「ちょっと失礼」と部屋を出ていった。残された竹坡が何気なく後ろ向きに立てかけてあった作品を1枚1枚見ていくと、それらはいずれも描きつぶしの失敗作であったが、そこには自分ではとても及ばない「画的生命」がみなぎっていた。失敗した箇所にも新しい試みがなされていた。竹坡が嘆賞しつつそれらを眺めていると、両手にざるそばを掲げた春草が戻ってきた。

「到底君らの口には合わないだろうが、せっかくだから食べてくれ」

竹坡はその気持ちをうれしく思ったが、何かしら胸に迫るものがあり、涙の出るような気がしてならなかった。

このような困窮な中においても熱心に作品をつくっている天才画家のことを思うと、自分などが芸妓を連れて贅沢三昧をしていることが恥ずかしくなってきた。
とっさに竹坡は、外で待っていた芸妓たちを追い返し、東京に引き返した。そして数カ月かけて描きあげた屏風絵を引き裂き、夜を徹して筆を走らせ、作品を描きなおした。

どんな貧しい境遇に置かれても、ひたむきに芸術に生きようとする若き画家、春草。
その姿がありありと浮かぶようだ。