善福寺公園めぐり

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なぜ日銀本店は橋のたもとにあるのか?

先週の土曜日(1日)に日本橋川での船上コンサート「名橋たちの音を聴く」に参加して、辻康介さんの歌と太田光子さんのリコーダーの響きもすばらしかったけど、都市楽師プロジェクト主宰の鷲野宏さんの「建築解説」がおもしろかった。

昔は、建物の多くが川に面して建っていて、川や橋を中心に都市が栄えていたのがよく分かった。

その好例が日本銀行だろう。写真は船上から撮った日本銀行本店。日本橋川に架かる常磐橋と常盤橋という似たような名前の2つの橋のほとりに建っている(上は無粋な首都高速道路。おかげで空が見えない)。
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日本銀行は今から130年前の1882(明治15)年10月10 日に開業したが、最初の建物は隅田川に架かる永代橋のたもとにあった。
ここにはもともと北海道開拓使出張所があり、その建物を本店にして開業したという。まだ鉄道がそれほど発達していなくて(新橋-横浜間に鉄道が開通したのが明治5年の1872年)、当然まだクルマ社会じゃないから高速道路なんてものもない時代、人々が集まりやすいのが橋のたもとだった。交通の便はもちろんのこと何かと便利だったのだろう。

しかし、永代橋の本店は手狭で、官庁や商業・金融の中心地からも離れていたため、より便利な場所に移転することになった。
より便利な場所とは日本橋だった。

新しい日銀本店の移転予定地は、江戸時代に「金座」があったところ。
金座は江戸時代に小判などを製造していた役所。金座に隣接する常盤橋御門は政治の中心である江戸城から商業の中心である日本橋本町に通じる重要な門だったし、金座のあった日本橋周辺には両替商や数多くの商店が軒を連ね、日本橋川沿いには魚市場が広がり、活況を呈していた。

明治に入っても日本橋は交通・商業の中心地であり、三井銀行第一国立銀行をはじめ多くの金融機関が集まっていた。

新しい日銀本店は、東京駅なども手がけた辰野金吾によって設計され、1890(明治23)年着工、1896(明治29)年3月に完成し、翌4月に永代橋の店舗から移転した。

そういえば江戸時代、江戸で一番の繁華街といえば両国広小路。両国橋のたもとに広がる火除け地だったところだ。
政治・経済も、さらには文化も、交通によって運ばれ、流れていった。今はテレビやインターネットだろうが(テレビの語源は「遠く」で「見る」)、昔は人の手で運ばれた。そこで橋の役割は重要だったに違いない。
あらためて橋というものを見直したい。