20日の月曜日は4月に続く「歌舞伎座新開場杮葺落5月大歌舞伎・第2部」を観る。
開演前に屋上庭園に行ってみようと早めに行くが、「本日は雨のためお休み」とのこと。
それにしても地下の「木挽町広場」は平日の昼間というのにすんごい人出。歌舞伎を見に来た人ばかりじゃなくて通りがかりの人も多いだろうが、オバサン・オジサンばっかり。広場ったって土産物屋が並んでるだけなんだが・・・。
入口周辺も、席は決まってるんだから並ばなくてもいいだろうにと思うが、長蛇の列(幕見席を求める人も多いだろうが)。
午後2時40分開演の第2部の演目は「伽羅先代萩」の「御殿」と「床下」、それに「廓文章」の「吉田屋」。
開演前に屋上庭園に行ってみようと早めに行くが、「本日は雨のためお休み」とのこと。
それにしても地下の「木挽町広場」は平日の昼間というのにすんごい人出。歌舞伎を見に来た人ばかりじゃなくて通りがかりの人も多いだろうが、オバサン・オジサンばっかり。広場ったって土産物屋が並んでるだけなんだが・・・。
入口周辺も、席は決まってるんだから並ばなくてもいいだろうにと思うが、長蛇の列(幕見席を求める人も多いだろうが)。
午後2時40分開演の第2部の演目は「伽羅先代萩」の「御殿」と「床下」、それに「廓文章」の「吉田屋」。
御簾が上がって「今、お館に悪人はびこり・・・」と藤十郎の政岡の立ち姿。せがれ千松のセリフが泣かせる。
侍の子というものは、ひもじいめをするのが忠義じゃ。また食べる時には、毒でも何とも思わず、お主(しゅう)のために食うものじゃと言わしゃったゆえに、わしゃ何とも言わずに待っている。そのかわり、忠義をしてしもうたら、早うままを食わしてや。それまではいつまでも、こうきっと座って、お膝に手をついて待っております。お腹が空いてもひもじゅうない。
客席からはヤンヤの拍手。
「ではご飯をつくりましょう」の政岡のセリフで、さてこれから「飯(まま)炊き」の場面かと思ったら、花道から女中がツツツと寄ってきて、管領の奥方・栄御前がご入来というので、「飯炊き」の場面はカット。
実は私が毎日のように散歩している近所の善福寺公園にはエゴノキ(ちさの木)がたくさんあって、ちょうど今ごろ花を咲かせているが、「飯炊き」の場面で千松が歌うわらべ歌の中に「ちさの木」が出てくる。
ぜひともその歌を聞くのが楽しみにしてきたのだが、カットとわかってガッカリ。「飯炊き」の場面だけで30分ぐらいかかるから、時間の関係でカットせざるを得なかったのだろうが。
ぜひともその歌を聞くのが楽しみにしてきたのだが、カットとわかってガッカリ。「飯炊き」の場面だけで30分ぐらいかかるから、時間の関係でカットせざるを得なかったのだろうが。
圧巻だったのは、舞台に政岡だけが1人残り、八汐になぶり殺しにされた千松の遺体を掻き抱きながらのクドキの場面。
これ千松、よう死んでくれた。出かしゃった、出かしゃった、出かしゃった、出かしゃった、出かしゃった、出かしゃった、出かしゃったよな。
この「でかしゃった」の言葉の1つ1つに怒りと喜び、憎しみ、悲しみが込められ、交差している。
仁左衛門と玉三郎の「廓文章」は2009年の5月公演でも観ているので、今度で2回目。
1回目に見たときはノーテンキなボンボンぶりがいかにも仁左衛門らしくてよかったが、今回見るとそれは天衣無縫という言葉に置き換えられると気がついた。
自然な人間の姿。そこに観る者は引き込まれるのではないか。
1回目に見たときはノーテンキなボンボンぶりがいかにも仁左衛門らしくてよかったが、今回見るとそれは天衣無縫という言葉に置き換えられると気がついた。
自然な人間の姿。そこに観る者は引き込まれるのではないか。