善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

諸星大二郎 彼方より

最近、なぜか諸星大二郎のマンガを何冊か読んでいる。

SF、伝奇ものばっかり書いていて、2000年に『西遊妖猿伝』で手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した人。
暮れから正月にかけて『妖怪ハンター』『暗黒神話』などを読んだが、どれもちょっと飛躍しすぎというか、荒唐無稽すぎて馴染めなかった。
しかし、短編集の『彼方より』はナルホドと思わせるところがあって、おもしろかった。

『生物都市』『海の中』『天神さま』などなど10の短編。モチーフとなっているのは、筆者のあとがきによれば「異界」である。

たとえば『生物都市』では、有機物である人間と無機物である金属や機械など文明の産物との「融合」が描かれる。

木星の衛星イオを調査した宇宙船が地球に帰還した。ところが、乗組員は人工的な無機物と融合する体になってしまっていて、地球の人間にもそれが瞬く間に伝染していく。
クルマと体が融合してしまう人、電話器と融合する人、アスファルトの道路に人が溶け込んでいく。

実はイオには地球と同じに人間が住んでいて、巨大な機械文明が発達したのちに危機が訪れ、生き延びる最後の選択として、人と機械は合体して別の生物となっていた。
しかも、その生物の意思はイオに到着した地球の人間にも伝染し、やがて地球に帰還するとたちまちのうちに広がっていったのだった。

機械の意思が地球人たちの体に溶け込み、広がっていって、人々はこう語る。
「この新しい世界で、科学文明は人類と完全に合体する。人類に初めて争いも支配も労働もない世界、ユートピア(理想世界)が訪れるのだ」

しかし、その言葉は、高度に発達した文明社会への皮肉であった。

物語の最後に、唯一生き残った人々のその後が紹介される。
この人たちは、身につけている金属類はすべて捨て、文明の産物には決して触れずに、自然の土の上を走って逃げて生き延びた。でないと機械や人工物に飲み込まれてしまうからだ。

「ナベもフライパンも捨てちまったよ。なあに、人間は自然のままの生活がいちばんいいのさ」
原始時代の暮らしに戻ったところで物語は終わる。

この物語は決して荒唐無稽ではなく、なるほどあり得ることだと思った。
果たして機械に「意思」があるのかといったら、あるかもしれない。
「意思」といったって、人間が考える「意思」とは別の概念の「意思」だが、それを機械なり無機物は持っているかもしれない。

たとえば「カオス」という概念がある。
「カオス」とは、辞書を引くと「混沌」「無秩序」などと訳されるが、科学技術の分野では「一間無秩序に見えるが、背後に無数の秩序構造を持つもの」という複雑系の力学現象を指す。

カオス現象は実はごくあたりまえにどこでも起こっていて、風に吹かれて揺れる木の葉、地震の揺れ、海岸に打ち寄せる波なども、カオスで説明できるという。
実はカオスとは、自然の「意思」を説明する概念なのかもしれない。無秩序のようでいて、ちゃんと法則性を持っている自然。そこには人間の意思とはまったく異質ではあるが、「自然の意思」があるのかもしれない。

カオス現象は私たちの体の中でも起きている。たとえば心臓の鼓動は決して一定ではなく、強くなったり弱くなったりして、ときに一見すると不規則のような大きな“ゆらぎ”さえみせる。それは体とは自然そのものだからなのだ。

その動きをコントロールしているのは自律神経だが、自律神経は私たちの意思とは無関係に働くので、「私の中のもう1人の私」といってよい存在だ。つまり、私の中には、私の「意思」とは違うもう1つの意思(自律神経)があって、私たちの体をコントロールしているのかもしれない。

話がちょっと横道にそれてしまったが、いいたいことは、人間の大脳皮質の働きだけが「意思」ではないということだ。

そういえば手塚治虫の『火の鳥』にも、無機物が意思を持つ話があったように記憶している。
いずれにしろ諸星大二郎の『生物都市』をはじめとした短編の数々には、日ごろの常識とか価値観を覆してくれる意外性があり、マンガならではの世界を描き出している。