善福寺公園めぐり

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経済が政治を変える? 新しい左翼入門

松尾匡『新しい左翼入門 相克の運動史は超えられるのか』(講談社現代新書)
匡は「ただす」と読む。ご両親は飯沢匡のファンだったのかな?
別に左翼でも何でもないが興味本位で手にとった本。
松尾氏はマルクス経済学者で、久留米大学経済学部教授を経て08年より立命館大学経済学部教授。

明治から現代に至る日本の左翼の歴史を論じているのだが、わかりやすい書き方でスルスルと読める。
よりわかりやすくと思ったのか、かつてのNHK大河ドラマ獅子の時代』の登場人物にひっかけて、高い理想を抱いて、それに合わない現状を変えようと上から目線で突き進む薩摩藩出身の官吏、刈谷嘉顕(よしあき)の「嘉顕の道」タイプと、抑圧された大衆の中に身を置いて「このやろう!」と立ち上がる下級会津藩士、平沼銑次(せんじ)の「銑次の道」タイプの2つのタイプに分けて日本の左翼運動史を論じている。

筆者によれば、日本の左翼の歴史はこの嘉顕タイプと銑次タイプの相克の歴史であり、ドラマのフィナーレのように、両者がうまい具合に「総合」ができたら日本の左翼はもっと発展していただろうというようなことを書いている。

たしかにわかりやすい分類の仕方だが、筆者の都合のいいように運動家たちを2タイプに分けている感じもして、チョット本質とは違うんじゃない? という気もしたが、ヘーそうか、ナルホドナと思った部分もあった。

それは、唯物史観についての次の記述だ。

筆者によれば「唯物史観」とは、「生身の個々人の暮らしや労働の都合に合わなくなった政治や体制や文化はやがて打ち倒され、もっとマッチしたものに取り替えられる」ということである。

つまり、ヘーゲル弁証法がいうところの正・反・合の3段階の発展といおうか、風船の中の空気がどんどんいっぱいになって、もうこれ以上空気が入らないところまで膨らんで、ついには爆発する。新しいものの勢いがどんどん膨らんでいくと、古い容器には収まらなくなって、ついには新しい容器を求めて爆発する、すなわち革命である。

たとえば、西欧での封建社会から近代社会への移行はどういうふうに説明されたかというと、長い時間をかけて封建社会の中から商工業者がビジネスする経済が少しずつ育っていった。
これが「ブルジョワ経済」であり、領主と農民の間で営まれた封建制の経済とはまるで違う経済システムである。
ブルジョワ経済が広まっても、最初のうちは政治体制は国王や領主がいばっている封建的な政治体制のまま。しかし、ブルジョワ経済がもっと広まって、かなりメジャーな経済にまでなったにもかかわらず、政治体制が封建的なもののままだったら、いろいろと日々の現場の商工業の運営に不都合が出てくる。
そこで市民革命が起こって、ブルジョワ経済にとって都合のいい政治体制が打ち立てられる。
このように「経済の都合に合わせて政治が決まる」というのが唯物史観の必然法則、と筆者はいう。

ところがマルクスは、資本主義から社会主義への移行についてだけは例外を唱えた。これがおかしい、という。へーそうだったのか。

先に政治革命が起こって、政治権力を利用して経済の仕組みを資本主義から社会主義に変えるというのがマルクスの主張。これでは唯物史観とは逆の「政治が経済を変える」という図式になっていて、社会主義がダメになったのは、「こんなことをいっているマルクスにも責任がある」と筆者はいう。

たしかにロシアにしてもどこにしても、資本主義から社会主義に移行する革命は資本主義が未熟な国で起こっていて、「政治が経済を変える」図式であった。

じゃあ「経済が政治を変える」図式にするにはどうすればいいか。
そこで筆者が推奨するのは、市民による“自主事業経済”というものらしい。

「今日勃興している、労働者や利用者自身による自主事業経済を発展させていく路線は、経済の仕組みが先に新しくなってから、あとから政治体制が変わるという意味で、唯物史観の示す普通の社会変革の通りの順番になっています。その意味で、マルクス以上にマルクス的な路線といえます」
「現代の自主事業経済が発展していったら、資本主義経済に替わる別の経済システムとしてだんだん広がっていくかもしれません。百年後か二百年後に本当に十分そうなっていたならば、この経済にマッチするように、資本主義的政治体制がくつがえることは、そのときこそ『必然法則』となります」

“自主事業経済”ってどんなものかわからないが、100年後や200年後というのだから、まるでユートピアのような話だが。

それでも、「経済が社会を変える」というのが本当であるなら、次のようなことは考えられるだろう。
資本主義経済のメカニズムの中で、搾取される側であるはずの労働者が積極的に経営に参画していって経営者と社員との見分けがつかなくなるようになっていく。あるいは、営利追究を目的としないNPOの活動範囲が広がり、NPOの数もどんどん増えていって、そういう企業や団体・集団が多数を占め、営利企業を凌駕して国の経済の中心になれば、やがて社会も「新しい入れ物」を求めて変わっていくかもしれない。

けさの新聞(朝日25日付朝刊、15面の「論壇時評」)を読んだら、似たようなことがすでに起こっている。

大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県宮古市の重茂(おもえ)漁業協同組合では、組合長が、本来は1人1人が事業主である漁民たちに次の提案をした。
「残された船を漁協で管理して共同利用する。水揚げはプールして平等分配する」
前代未聞の方法は、1つの異論もなく受け入れられたという。

もう1つ、こちらは外国の話だが、スペインのモンドラゴン協同組合は総計250のさまざまな企業・組織の連合体だが、そこでは「連帯」の精神が重視されていて、たとえば給与の最低と最高の格差に制限を設けることで、「現場労働者と経営トップの連帯を示している」という。

ほかにも例が示されていて、「これらのグループに共通するのは、硬直した政治・経済システムに頼らず(人任せにせず)、自らの手でシステムを作ろうとする意志だ」と筆者である作家の高橋源一郎氏は述べているが、風船の中の空気は多少は膨らんできているのだろうか。