善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

新国立劇場 おどくみ

金曜日の善福寺公園。朝のうちちょっぴり涼しく感じられた。
上池の手すりの上でトカゲさん日光浴。爬虫類は暑さに強いのか。
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昨日の晩は新国立劇場へ。『鳥瞰図』『雨』に続く3連作最後の作品は『おどくみ』。
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新作書き下ろしで、作者は新進気鋭の青木豪、演出は新国立劇場の芸術監督でもある宮田慶子。
出演は、高橋恵子浅利陽介黒川芽以下村マヒロ、東迎昴史郎、谷川昭一朗、樋田慶子根岸季衣小野武彦
「総菜店の厨房における日常会話を通して、現代の日本を考える家庭劇。これまでの現代日本演劇の視点とは角度を変え、『そこにあるはずだが、なかなか見えにくい日本の中心とは何か』を探り、80年代以降の日本とは何かを問おうとする意欲作」と劇場の宣伝文句にある。

ものがたりは──。

時は1980年代半ば。横須賀のはずれ町にある商店街。そこにある総菜屋「はたなか」の厨房は、毎日、仕出し弁当や持ち帰り弁当の製造や惣菜作りに追われている。店を切り盛りするのは畑中家の主人・幸広(小野武彦)ではなく、その妻・美枝(高橋恵子)と、パートで皇室マニアの主婦・酒田(根岸季衣)の二人。そこに畑中家の長男・剛(浅利陽介)と妹の長女・郁美(黒川芽以)、幸広の弟で、いまだに実家を頼る二郎(谷川昭一郎)、同居する幸広の母・カツ(樋田慶子)ら、ひとくせもふたくせもある人々が絡む。

幸広は美枝にいわれるままに仕事をこなしてはいるが、何かにつけ店を出て行こうとする。弟の二郎は家庭がありながら甲斐性がなく、いつも畑中家に出入りしてはカツや幸広に金を借りていく。畑中家の大黒柱は嫁である美枝の双肩にかかっている。

その畑中家の日常が少しずつ変化を見せる。長男・剛は一浪の末、学習院大学に入学し映画研究部の活動に没頭。ロケ中に足を折り、友人の長崎(東迎昂史郎)と石綿下村マヒロ)に付き添われて帰宅する。政治家志望で乗りのいい長崎と、医者の息子で陰のある石綿石綿は高等科のとき、写真部の先輩に礼宮がいて、東宮御所で夕食に招待されたことがあるという。

ある日突然、葉山の御用邸から注文が入る。珍しく一丸となって仕事に精を出す畑中家。弁当を届け万々歳なはずだったのだが、思わぬ異変が起き、しだいに暗雲が立ちこめるのであった…。

久々に役者のナマの声を聞く喜び。最近はどこの劇場へ行ってもマイクを通した声しか聞くことができず(何と落語まで)、何のためのナマの公演なのか、と思うこと大だったが、さすがに小劇場だけにマイクは不要なのだろう。

基本的には家庭ドラマ。どこにでもありがちな家庭での葛藤、衝突、そして和解(らしきもの)が描かれていて、見る側はつい自分の身に重ね合わせてしまう。「自分があの惣菜屋の奥さんだったら、きっととっくに離婚してるのに、なぜまだ一緒にいるの!?」とか、「弟のことを思う長男の気持ちもわかるな、だってオレも長男だもの」とか、それでテレビの家庭ドラマは根強い人気なのだろうか、とも思ってしまう。

高橋恵子が相変わらず美しい(といっても、映画も芝居も見るのは初めてだが)。それぞれの役者が、それぞれの役柄にピッタリの演技をしていて、好感がもてる。

だが、作者のいわんとしていることはまるでわからない。この作品は家庭劇であるとともになぜか天皇についての物語でもある。「家庭」と「天皇」それが時代を問うキーワードになっているらしく、作者のメッセージらしいことは、芝居の最後の方に長男の剛の口から語られる。

昭和天皇が亡くなり平成の時代に入ったころのことで、彼は、「そこにあるはずだが、なかなか見えにくい日本の中心とは何か」について、こんなふうなことを、観客に語りかけるでもなく傍白する。

結局のところ人々がいくら死を語ろうとしたところで、それを経験した人はいないわけで、それと同じように天皇のことをとやかく語ろうとしても、誰もご本人=国の象徴である天皇という立場になったことがないので、分らない、そして人は解釈できないものが好きなのである──。

だからなんなの?
天皇」を俎上にあげるとき、かくも人は(いや戦後の日本人は)意味不明になるものなのかを実感した芝居であった。